第18話   平野勘兵衛の合わせ竿   平成25年08月15日  

 7月のある日酒田にある「あいおい美術館」と云う私設の美術館に行った。この美術館は質屋(元白畑質店)だった建物が取り壊されると云う話を聞いて、見に出かけた館長が一目で気に入って買い取りして美術館を作ってしまったと云う話である。館長の工藤幸治氏は庄内から112号線で月山を越えた先にある寒河江市の白岩の生まれの人との事だ。寒河江市とは、平安末期の頃寒河江の庄と呼ばれており、鎌倉時代初期には鎌倉幕府の地頭大江広元の所領となっておりかなり古くから開けた土地柄である
 山形大学教育学部を卒業なされ、先生、校長などと教育畑を歴任。退職後は酒田に踏み止まれ土門記念館、酒田市美術館の理事などをなされながら県美展依属作家として絵を描き活躍、更に地域の文化活動等に精力的に行っている。その為、あいおい美術館は、金・土・日の週三日間しか空いていないし、時々氏の忙しい時にはその三日間すら臨時の休館日となる事さえある。
 以前あいおい美術館に行った事のある従兄弟から「庄内竿が少し有ったみたい!」と聞いていた。そこで7月の暑い日だったと思うが、電話を入れて見た「釣りが好きなもので、庄内竿があると云う話を聞いたのですが、あればぜひ見てみたいのですが・・・・」すると「最近面白い物が手に入りましたので、見てみますか?」と云う。「是非に・・・!」。それで早速出かけて見るとそれは酒井藩の殿様が使ったと謂われのある素晴らしい削り竿があった。作者は幕末の庄内藩士で弓師の平野勘兵衛(鶴岡藩士203人扶持弓方総支配18471896)と云う知る人ぞ知る竿師である。幕末の頃竹を自在に加工する微禄の弓師達は、当時盛んになって来た釣りに必要な竿を作っては生活費の足しにしていたような話を聞いた事がある。平野勘兵衛もそんな弓師の一人であったようだ。
 その竿は、唐竹(真竹)の節を刳り貫いて表皮に漆を塗った関東の渓流竿を三本か継ぎ足し、竿が折れぬようにその中に格納し保管されていた。以前からそのように入れていたのではないとの事だった。その削り竿は殿様が使ったと云うだけに、今まで見た事のない総漆の立派な削り竿であった。その造りは致道博物館に展示され見慣れている
削り竿と明らかに違っている。竿の胴の部分から穂先まで丁寧に漆が塗られている。ただ造りが余りにも立派過ぎて勿体なく、使うに使えない思う出来栄えである。
 自分が今までに見慣れた勘兵衛の削り竿は、全体的に薄い漆がかけられ手元が籐で巻かれているだけのものである。それに対してこの竿の胴の部分は漆で黒と赤が交互に丁寧に塗られている。そして手元が孟宗竹を使い四角に丁寧に張り合わせ、竿を持ち易いようにと加工されていた。
 勘兵衛作と伝えられるその削り竿は、小物釣り用で六尺前後の小竿である。孟宗竹の皮を表側と裏に交互に四枚重ねにしてニベと云う魚の骨から作られた膠(ニベ膠は韓国の螺鈿接着にも使用されている。我が国では接着力が強いので弓矢の接着にも使われいる)で張り合わせその後、丁寧に削られた丈夫で穂先が細い竿であった。この竿は晩秋の風の強い日に良く喰いのたつクロコ(メジナの当歳魚)を釣る為の専用の竿である。強風でも竿が曲がらぬように、そしてクロコのアタリが良く取れるように堅くて細い穂先が工夫され作られた竿である。正にこの様な発想は弓師でなければ考えつかぬ竿であったと推測される。
 この竿の作り方は勘兵衛死後完全に途絶してしまった。それを再現しようとしたのは昭和に入ってからの本間祐介氏である。平野勘兵衛作の合わせ竿とおぼしき竿を鶴岡の釣竿収集で有名な豪農五十嵐弥一郎氏から二本手に入れて来て、中山賢士氏(1880-1967・学校教員で多彩な趣味を持ち、さらに釣りにも一流の見識を持つ人物で退職後は悠々自適に竿作りに励んだと云う人物)に持ち込んだ。その後一年間かけてじっくりと研究し試行錯誤を繰り返し、遂に作り方を突きとめたと云う経緯がある。そして中山賢士氏は研究の成果として削り竿を数本作り、本間祐介氏が貰ったものが現在本間美術館に残っている。
 現在も使われている削り竿は残っているが、但しその竿は、身の厚い孟宗竹を幾つかに割って、その中の一つを自分で削った物で、名人が孟宗竹を四枚表と裏を交互に張り合わせして作った見事な竿ではなく、全くの別物の竿である。勘兵衛と同じように六尺に満たぬ短い一本の延べ竿として作られたその竿は、漆の代わりに安いニスが塗られている事が多い。その竿は主に小物釣り用として使われているが、そんな竿でも独特の引きと曲がりが結構楽しめると云う竿で人気があった。